logo tights♪ [movie]
ニコ生感想
画面を横切るコメントが大嫌いでニコ動はほとんど観ないのですが、これは気になるテーマだったので。
結論から言うと未来に希望を抱けない内容でした。
どれだけ野党や在野ががんばっても、現在の政治の体質は変えようがなく、どんどん弱者を追いつめるだけのような気がしたのです。
無職で職歴もなく二次障害をこじらせてる発達障害者はどうやって生きていけばいいんだろう。
時々絶望にかられて叫び出したくなるけど、そんな気分を喚起させる番組でした。
後、ニコ動のコメントの仕方とかがよくわかってなくて困りました。結局送ったメールも読まれなくてしょんぼり。

にほんブログ村

にほんブログ村

にほんブログ村
ぐるり巡って [essay]
立て続けに読んだ本が思いがけず関連性のある内容だったので。
梨木 香歩『ぐるりのこと』は自分が心の隅に抱えつつ、言葉にできないでいたことを形にしてもらった気がした。
加速度を増す時代に不安を感じ、立ち止まって熟考する暇すら赦されない風潮に恐れを抱くのは自分だけではなかったのだ。
日高 敏隆『春の数えかた』はまさに“ぐるりのこと”について書き綴ったエッセイ。
話題は小さな昆虫から地球温暖化まで多岐にわたるが、著者の目線に巨視的・微視的といった視点のブレがなく安心して読める。
どれも草叢の虫の目線から語られるような細やかな印象がする。
身の回りの動植物や季節の変化から鬱勃とさまざまな考えや思いが浮かんでくる。それは何かに対しヒステリックなまでに過剰反応を示す俗世間のことだったりするけれど、それこそ前者の本に書かれた諸事でもある。
当世の内憂外患から動植物の生態、再び俗世へと思考の輪が一巡するまさに“ぐるり”を巡る思考の小旅行をした気分だった。
食への関心 [nonfiction]
拒食症になってしまいそうな本を読みました。
郡司 和夫『これを食べてはいけない』。
要するに『買ってはいけない』の食物版なのですが、
『買ってはいけない』を読んだ時もそうだったけど「何も買えんじゃないかー;」と思ってしまいます。
加工食品は「毒の塊を食べてる」くらいの覚悟を持って口にするしかないかな。
数ヶ月前に『おいしいハンバーガーのこわい話』を読んで、ここで名指しされてる企業のハンバーガーは食べなくなったので、今回も少し影響されるかも。
とりあえずスポーツドリンクとペットボトルのお茶は飲まない:

これを食べてはいけない―危ない食品のカラクリ-何を選ぶ?どう食べる?
- 作者: 郡司 和夫
- 出版社/メーカー: 三笠書房
- 発売日: 2007/10
- メディア: 単行本
生きるための自殺学 [nonfiction]
ケイ・ジャミソン『生きるための自殺学』。
購入の動機は、自分自身なぜにこうも考えが死にとらわれているのか、理由が知りたかったので。この手の本を読み終わって(そんなことは滅多にないのだが)少しでも対処法がわかったり、気分が軽くなればという期待もある。
500頁近いノンフィクションを読む課程はつらかった。
「エッセイ この生、この死」を読んでいる時など泣きそうだった。薄っぺらい感動の涙ではなく、これが現実に起こったことだと思うと胸が潰れそうで。
語弊をおそれずに言えば、実際に自殺するか否かは重要ではない。
問題は、常に自殺を考えてしまうほどつらい心理状態にあることだと思う。
精神疾患の厄介さは、どこまでが自分の本来の性格でどこからが疾患による思考なのか、本人ですらその線引きがしづらいところにある。
他人が病者の性格を誤解をするだけでなく、本人すら自分自身がすべて悪いような気がして、自分を責め余計に苦しんでしまう。(いつも思うけど精神病名て残酷だよねえ。人格障害なんて「人に非ず」て感じを受けるじゃない。。
精神疾患は発想を没個性的にする。本書に描写される病者の心理や思考は自分も痛いほど覚えがある。
だから本来の自分が病の闇に隠されわからなくなったら、この本に書かれた考えを注意深く取り除いてみるのも光明を見いだすひとつの指標になると思う。
少女趣味 [movie]
ご無沙汰してます。
最近これといって読んだり観たりしてないもので。。国外モノのくくりで感想をば。
レイチェル・カーソン『沈黙の春』ようやく読みました。環境問題を題材にしたパイオニア的ノンフィクション。
パイオニアであるだけに、現在誤りとわかっている事柄も書かれていますが、この本の伝えようとするメッセージは今もゆるがないものだと思います。
翻訳の文章がとてもきれいで、何冊かある新潮文庫の海外モノのなかから、一番自分好みの文体を選んだらこれだった、という(笑)
ツ○ヤのレンタルで借りて観た『エコール』。
森、棺桶、リボン、白い制服、バレエ、妖精。。ここまで臆面もなく古典的少女趣味全開だと、いっそ気持ちいいです。
光と影と水の表現が奇麗。映像の美しさはピカイチ(これまた古いな。。
最後の水の柱の周囲を回るシーンが好きでした。古事記のイザナギ・イザナミを彷彿とさせて。
ノンフィクション/ノンセクション [nonfiction]
ノンフィクションの本を読む行為は実用的かつ即物的で、高尚な読書(純粋な娯楽)ではない、という後ろめたさがあって、どっちかというと避けていました。
興味を引かれたものは、ジャンルにとらわれず読んでみよう、と意識が変化してきたのでここ最近よく読んでます。
『おいしいハンバーガーのこわい話』は子ども向けに書かれたため、文章が平明でわかりやすく、多面的で複雑に絡んだ内容もすっと理解できる本だった。
知らずにいればよかった、と思うこともあったが、それでも知ってしまったからには無かったことにはできない。無関心ではいられない。真実がどれほど痛みを伴うものでも知る権利はある。何が正しく何が誤りなのか、自分自身で判断を下すためにも。
このいささか大袈裟な決意表明を伴うから、ノンフィクション系は苦手だったんですが。。
この本を読んで、いったいどれほどの食品が安心して口にできる無害なものなのだろう。。と思った。以前読んだ『生きさせろ!』で著者の雨宮処凛が「不買運動をしようとすれば、買える物が無くなってしまう」と書いていたのを思い出す。
易きに流れる人の本性を悪だとは思わない。それにつけこんで得をしようとする組織こそが巨悪なのだ。
無関心ではいられない目下の問題が就職。
香山 リカ『就職がこわい』は「就職できない学生」の理由を外的要因でなく内的要因に求める、精神科医らしいアプローチだが、全面的に承服はできかねる。
「仕事で自己実現できなくったって、経済的自立のために割り切って」就職できれば苦労はしねえんだよ。正規雇用の枠は相変わらず狭いし、四大卒との格差は歴然としてるし、男女差別も健在だしで、やっぱり不利な条件は未だに解消されてない。
いい加減、社会全体の歪みを個人の問題にすり替えるのはやめてほしい。。
河合 隼雄『閉ざされた心との対話』の療法は知っておくに越したことはない。
実際に自分が療法を誰かに試す、なんて危険きわまりない真似は行わないけれど、カウンセリングの基本姿勢を頭に入れておけば、人から悩み相談を持ちかけられた時、不用意な言動で相手を傷つけてしまう危険性は、いくらか回避できると思う。
ところどころ、ぐっとくる言葉が盛りだくさんで、子どもの頃こう言ってもらえたらだいぶ楽になっただろうな。。と。
いろんなケースが紹介されてて、悩みそれ自体より悩みを明かせないことのほうが深刻なんだ、と改めて思い知らされる。
傷ついた人のほうが、誰かに優しくできるのなら、傷ついたままでもいいかなあ、、と思ったり。
この本を読み終えてから河合 隼雄さんの訃報を知って、ショックでした。もっと著作を読みたい。。心よりご冥福をお祈りいたします。
ファンタジーを指向する分岐点 [novel]
今年の前半、わりと間を空けずにひとつの物事をまったく別の視点から書いた、としか思えない文章に出会いました。
『飛ぶ教室 2007年冬号』収録「“不揃い全集”に助けられて」(林あまり)と『ファンタジーのDNA』収録「文章を書く」(荻原規子)。両方とも子どもの頃の読書体験を綴ったエッセイなのだけど、よくもまあここまで好対照にわかれたもんだ、と思わずにおれません。
両者とも「学校が嫌い」で「本が好き」な〈元〉少女という共通項が多いにも関わらず発想は水と油ほどにも違う。
林あまりは子ども向け文学全集のなかでも「現実的で、主人公が苦労を地道に乗り越えていく話」を好み、「魔法が出てくるのも大嫌い。(魔法なんか使えるんなら苦労しないんだよ!)《中略》徹底したファンタジー嫌いの子ども」だったと言う。
一方の荻原規子は、前者とほぼ共通する作品を愛読しつつも「こういう少女たちの物語を好んで読みながら、自分に重ねることはついぞ考えてもみなかった。」のであり、なぜファンタジーを指向するのかといえば「けれども、ここではない別の時間、別の世界にいる、一人の美女ならわけなく想像できた」からだとする。
この記述を読んだ時に、長年のつかえがとれたような気がした。なぜ世の中にはファンタジーを好む人間とそうでない人間が存在するのか。
荻原規子が指摘するとおりファンタジーは「書き手の自分を開いていくのではなく、消せるところまで消して」創り上げたものだ。重苦しくのしかかってくる「自分」から心を解き放って、はじめて物語を心ゆくまで楽しむことができる。そういう種類の人間が、おそらくファンタジーを指向するのだろう。
逆に地に足のついた「自分」から離れることを居心地が悪く感じる人がリアリズムを指向するのだと思う。常に現実の「自分」を引き合いに出しながら読書するから、現実世界で行使不可能な魔法なり超自然現象なりが介入すると物語とのシンクロが途切れてしまう。
ファンタジーを指向する分岐点。。それは「自分」を消すことを是とするか否か、であると思う。「自分」を消すことを厭わない人はファンタジーが楽しめ、「自分」の立脚点がないと落ち着かない人は楽しめないだろう。
両氏がともにM・モンゴメリの『赤毛のアン』(その他の愛読作品もかぶってます)を取り上げつつ、まったく逆の意見に帰結するのが興味深い。
このファンタジー好悪分岐点、現在ならさしずめ「りぼん」「なかよし」を卒業した女の子が「マーガレット」と「花とゆめ」どちらを選択するか、の問題に近い気がしてます/笑